「宗教と家庭円満の両立、奥底に何を秘める」

S学会3世の僕が無視してきた感情を掘り返すための場所。

返報性の原理を制御できない

 

こんばんは、じゅんべえです。今日は僕の人間関係構築における難所の話をします。

 

学生の頃から


僕はよく秘密を打ち明けられる。家庭不和やら宗教問題やら自傷行為やら。こちらはさほど気にしないので、特に関係性が変化する訳でもない(恋愛は別だが)。
昔から気にはなっていたが、相手との距離を大きく縮めるのに役立つのでほったらかしにしていた。とは言え

 

さすがに打ち明けられすぎだ

去年マッチングアプリを使って婚活をしていた時のこと。

5歳ほど年下の女性と意気投合し、初デートも成功したころ。「実は私母子家庭で、母親との折り合いがずっと悪くて・・・」なんて打ち明けられた。マッチングしてから1か月も経っていないのに。

結局この女性と付き合うことはなかった。しかし僕にとって大きな問題が浮き彫りになってしまった。

 

恋愛関係へ進もうとすると必ず「打ち明け話」に遭遇してしまう

 

心理学やら恋愛コラムを読み漁り、信頼出来る相手だからこそ自分の苦しみを打ち明けられるものだと学んだ。それはいい、それだけ信頼を勝ち取る為の振る舞いが出来ていた証拠だから。

問題は相手の悩みを解決しようとして、不可能だと分かった瞬間に逃げ出してしまうこと。涙でも流されようものなら息苦しくて仕方ない。友達相手ならそんなこと無いのに。

 

そもそも相手の問題をなんで僕が解決しようとする?

 アドラー心理学に「課題の分離」というキーワードがある。

「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か」

「嫌われる勇気」著 岸見一郎・古賀史健 P141

 

相手の家庭環境がどうなろうと、僕が相手以上に影響を受けることはない。それこそ相手が問題解決する時に邪魔にならなければいいだけの話。

ここで出てきてしまうのが創価の価値観。相手のために動くことで功徳を積もうとする。相手の思考を確認もせず制御しようとする。気づいたら自分の支配下に置こうとする。日常の中で刷り込まれた価値観は、罰論によって加速する。 

 

返報性の原理

相手に優しくもらったら、同じ分だけ優しさを返したくなる現象らしい。僕は不登校うつ病を経験し、いずれも社会復帰している。だから自慢半分でうつ病経験を回復経験とセットで語っていた時期がある。弱者扱いされて努力から逃げ出す意図もあったと思う。

今でもハッキリ覚えているやり取りがある。以前好きだった人にうつ病からの回復経験を話した。その後「友人がうつ病なんだけど、じゅんべえさんならどうする?」と問われた。僕は「そばにいてくれるだけで嬉しい」と答えた。相手は家庭が居場所の無かった経験を話し始めた。僕は何も手助け出来ない自分に絶望した。無様な姿を見せられないから逃げ出した。

そうやって好きだった相手を条件反射で拒絶したもんだから後悔が深い。友人に呆れられるほど。

 

未練がまし過ぎるよね

と自分で思ってしまうほど考えた結果、返報性の原理にたどり着いた。僕が生きづらさを語ってしまうから、相手も生きづらさを語ってしまう。打ち明けても大丈夫だと意図せず思わせてしまうのだろう。メカニズムが見えてくれば怖くないけれど、ずっと打ち明けられることが僕を責めているかのようにしか思えなかった。僕が悪魔にしか見えないこともあったんだろうな。悪いことじゃないさ、誰かが安心できる場を繰り返し提供できているのだから。

 

だけど愛情表現が

歪んでいた。相手を制御することが愛情だと創価の中で学んでしまった気がする。他人を制御出来ない事実に直面するたび、何回も好きな人の前から逃げ出した。僕は非モテというより人間不信の要素が強くて恋愛から遠ざかっていた。認めてくれる人はたくさんいたのに。

 

これからも

誰かに打ち明けられることは変わらないと思う。そんな時は「相手を見守るだけで良い、隣に居るだけで安心してくれるから」と自分に言い聞かせたい。

 

じゅんべえでした、読んでいただきありがとうございました。