「宗教と家庭円満の両立、奥底に何を秘める」

S学会3世の僕が無視してきた感情を掘り返すための場所。

自分で自分を縛り付けてた

おはようございます。じゅんべえです。

久々にブログを書こうと。

 

 前にブログを書いていた時期は、カウンセラーの先生の引き継ぎで2ヶ月くらいカウンセリングに行けなかった頃。

結局1年以上カウンセリングに通いつめ、ようやく出せた結論はやたらとシンプルだった。

 

「俺の人生に創価の教えはいらない」

 

両親を毒親だとなじっていた時期もあったし、死にたい、死にたいと叫んでいた時期もあった。だけどそれもかなり収まってきてる。

 

幼い頃は創価の人々に気に入ってもらう生き方の方が合理的だと思っていたんだろうな。

33歳になって、これまで出会ってきた人々のことを思い出してみたけど、僕が創価の3世だから交流してくれる人って創価の人々だけだったんだよね。学校で空気が読めなくてイジメられてたこともあったし、親友と何時間もだべっていたりすることもあった。

 

良くも悪くも世間の人々って相手の振る舞いしか見えないわけ。宗教がどうとか実家がどうとかって聞かないと分からないもの。

そして世間では友達相手でもケンカしたり仲直りしたりするのが普通で、ずっと関係が変わらないってのは逆に上っ面の付き合いだったり。

 おれ世間知らずだったんだよね。一般社会のルールって学校生活のルールとも違うんだけど、多くの人たちと人付き合いを深めて覚えていくみたいで。全然知らなかった。

相手が自分のことをどう思ってるかなんて相手にしか分からないもの。周囲の人間から噂話を聞いたところでなんの意味も無いんだもの。

 

今思えば学生時代に良き先輩との繋がりを作っておけば良かったと後悔してる。何とかコンサルタントが増えてるけどさ、確かにプロのアドバイスだからお金を掛ける価値はあるのかもしれない。とは言え先輩たちの背中を追い掛けることで自分の内面に気付くチャンスは増やせた気がする。

 

それに他人の人生なんて背負える訳がない。それこそ寄り添うのが精一杯だし、それ以上のことはだいたい求められないと思う。他人の人生を背負うことに気を取られて自分の人生を背負えなかったら何の意味も無いし。

 

おれ、これまでの人生でいくらでも幸せになるチャンスがあったと思う。どこぞのJポップじゃないけど「あと一つの勇気」があれば「愛されたい」って欲求を満たすことが出来たんじゃないか?

 

そんでもって「自分は不幸な人間である」と思い続けてた。しょうがないよね?不幸から信仰を得て幸福になるって物語を延々と見続けてたらそうなってしまったんだ。逆転人生じゃなくても、先行逃げ切りの人生でも何ら問題は無いのにね。

 

自分が不幸になりたいからって、大切な人を傷つけるなんて言語道断なのだ。

 

20歳の時に創価の教えに不信を抱いてから13年、たどり着いた結論はやっぱりシンプルでした。

 

「俺の人生に創価の教えはいらない」

 

以上